意思決定はあるのか?意思決定は観測可能なのか?
- 人類はこれまで数多の意思決定に関する研究(サイモン「経営行動」(1965)、Libet et al. (1983)など)を進めてきた。これから意思決定を考える際、意思決定とはひとが産み出した概念である点に改めて立ち戻るべきだろう。
- 身の回りの現象を、じっくりと観察してみよう。その現象に、意思決定はあるのか?その現象の意思決定は我々に観測なのだろうか?
- Q. 昨日雨が降ったのは、雨による意思決定か?雨による意思決定は、観測可能なのか?
- Q. 最近日差しがきついのは、太陽による意思決定か?太陽による意思決定は、観測可能なのか?
- Q. 気づくと部屋の中のエントロピーが増加するのは、部屋にある物質による意思決定なのか?部屋にある物質による意思決定は、観測可能なのか?
- ひとは、自分自身は意思決定する存在であると捉える。そしてあらゆる現象に対しても、ひと(特に、経験に基づく自分)や、集合知(特に、専門家から疑いをかけられることさえなくなってしまったナレッジ)になぞらえながら、あたかもそこに意思決定があるかのように捉えてしまう。
- 例えば、落雷現象を観測した現代のひとは、「雷が落ちる」と表現する。しかし、まだ電気が発見されていない300年前の世界では、「雷は落とされる」ものだった。「雷電の現象は虎の皮の褌を着けた鬼の悪ふざけ」(寺田寅彦「化け物の進化」(1947))が、意思決定者とされていた
- ここで、我々が意思決定があるように捉えてしまっているすべての現象について、一旦立ち止まって深く考えてみよう。そこに意思決定はあるのか?その意思決定は観測可能なのだろうか?
なされた意思決定には、どんな意思と決定があった?
- あなたのチームの大事な会議にも目を向けてみよう。今日も大事な会議で大きな意思決定がなされたはずだ。事前にアジェンダもあったし、会議は時間通りに開かれ、会議は時間通りに終わった。誰しもが、過去の不毛な会議の失敗から学んできたように、会議は、①意思決定、②報告、③ブレスト、④その他(大事な雑談含む)の基本設計通りだったはずだ。
- さて、議事録にはこの会議での決定事項が書かれている。そこにどんな意思とどんな決定があったと言えるのだろうか?
- Q. その意思は、誰の意思?誰のための意思?そもそも、意思は存在していたのか?
- Q. 「やりたい」だったのか?「やるべき」だったのか?「弊社もやらなきゃ」だったのか?
- Q. 「説明」だったのか?「説得」だったのか?それとも、「言い訳」だったのか?
- その決定は、誰の決定?誰のための決定?そもそも、本当に決定したのか?
- Q. 複数の候補を並べて最後に1つ選択したから、という決定だったのか?
- Q. メリットとデメリットの項目を書き出し、1項目を1ポイント、ポイントが大きいものだったから、という決定だったのか?
- Q. 制限時間が迫り、多数決で採択されたから、という決定だったのか?
我々は、本当に意思決定しているのか?
- いまこの瞬間も、世界中のあらゆるところあらゆる場面で、意思決定が行われている。しかし、我々が行う意思決定を、我々が確信できる意思決定とするためには、意思決定を俯瞰できる高次元な立場からの視点が必要だ。
- 経営、投資、研究開発など、各分野でフロンティアを走るひとたちにとって、意思決定する力はこれから最も求められる力だ。だが、これからますます変化が激しくなる世界では、意思決定する力だけではない、自分やチームの意思決定を俯瞰して意思決定する、高次元な視点が求められると考えている。
- 高次元な視点は、「答えのない問い自体を自分やチームが立て、向き合い、仮留めの答えを導いては、また新たな問いへと向かうため」の、エネルギー源の最も重要な要素の1つである。
- 「Q. 我々は、本当に意思決定しているのか?」、まずはこの問いに真剣に向き合うことで、世界中の高次元な意思決定に貢献できると信じている。